この小椅子には、太平洋戦争が日増しに激しくなり出した1942年、建築が将来出来るかどうか、という不安と焦燥を木の年輪模様の中に救いを求めようとしていた村野藤吾の思いが詰まっている。しかも、その心の暗闇の中でさえ、「建築とは」「人間とは」といった思い思索を繰り返していた。

現物は、当時「川辺郡小浜村字米谷」[ii]と呼ばれていた北摂の片田舎の指物大工と村野が二人だけで何日も何日もかけて、自分達の手で刻みだしたものである。

建築は目で見て、更に手で触れて、やさしく、すんなり人の感覚の奥底に心地よさをもたらすもの、戦争という全てが破壊されて行く時代の中で、初老の建築家[iii]の「平和への祈り」が込められているような小品である。

[i]村野藤吾の長男。村野藤吾を支え、村野建築について多くの文章を書き残した。2005年3月他界。
[ii]現在の兵庫県宝塚市清荒神。村野藤吾が家族と共に暮らした土地である。
[iii]当時50歳。