社会というものは思想も文筆も含めて、どんどん消費して行くでしょう。全てはその時代とともに消費されてしまう。消費されないのは人間だけですね。これは変化しない。そうするとやはり作家は自分の心を刻み、それからやはり悲しみと喜びを経験しながら、心の深み、あるいは広さといいますか、そういうようなものができてきて自然に自分に感じるものができてくるのではないかと私は思っています。

つまりね、こだわらないで、絶えずサムシング・ニューでやって行く。社会的条件は非常に変わって行くでしょう。それに対応してやって行くには、ひとつのことだけをいったり、理屈だけいったってダメですよ。絶えずサムシング・ニュー、これをやらないと。

人間と社会と建物の関係と言うようなものをどう考えるか、どういう手法を使うかということに建築家の責任、あるいは人生観といいますか、建築をみる見方、考え方というものが表れるのじゃないかと思っているのです。だから、現代建築がどうのこうのというようなことは後回しにして、ただ広い意味での人間と建築との関係をどう考えたらいいか、それから現実的問題として、投資されたものに対してどのような解決策をとるか、ということを考える。それにどういう材料を選ぶか、したがって手法というものがでてくる、こういうふうに考えます。

社会的平均の問題は、これはカタログだけでやっていてもできるでしょう。しかしそれ以上のものが問題になってくると思います。本当の人間の問題、これは依頼者からの条件では分からないものです。条件以上の問題だと思います。これこそ作家が考えるべき問題ですね。もちろんそれ以前に、いわゆる社会的平均のものはマスターしなければなりませんが、それより以上のものは作家の信念に持つより仕方がないものです。どんな小さな住宅でも、それは言い得ることだと思います。我々は消費財としてだけで建築をつくっているのではないですからね。

大きい気の張るような建物のスケッチは、たいてい病気中にできるんですよ。枕元にメモと鉛筆を置くわけですね。家内が取り上げるんですけど、かならず置かして、それが平生読まない本をそこに置いて…。実に気の張るようなときになると、かならず病気しますね。不思議ですね。

若い人には若い社会、年寄りには年寄りの社会というものがありましょう。しかしいつでも大切な問題の探求と追求が必要ですね。それがやがて作品の深みとなってきますから、幾度かの喜びと悲しみとを通過すると、考え方の中心というものが次第に移ってくる。