村野藤吾について
村野藤吾(むらのとうご、TOGO MURANO:1891〜1984)建築家

1891年5月15日佐賀県唐津市で生まれ、八幡で育つ。福岡県小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。その後早稲田大学工学部電気科に入学するが、後に建築の道へ進む事を決心し、同工学部の建築科に移る。また経済学にも関心を持ち、マルクス「資本論」からヒューマニズムに深く傾倒した。

1918年大阪の渡辺節建築事務所に入所、様式建築を学ぶ。1919年に論文「様式の上にあれ」を発表(日本建築協会雑誌、建築と社会)。この渡辺事務所員時代に日本綿業会館(大阪、登録有形文化財)を担当した。

1929年独立し、村野建築事務所を開設。初期の作品・森五商店ビル(1931年)は、当時訪日していたブルーノタウトからも高い評価を得た。シャープなモダニズム建築(旧そごう百店など)、落ち着いた和風建築(都ホテル佳水園、なだ万山茶花荘など)、祈りの場としての神聖な建物(平和記念聖堂、宝塚カトリック教会など)など、300を超えるその作品は多種多様な表情をみせながらも、豊かな表現力で「ぬくもりが感じられる建築」を創作し続けたことは共通している。
大阪に拠点を置き、各地の現場に常に意欲的に脚を運んだ。90歳を超えてなおも、現役で活動し、1984年11月26日に93歳で没する当日まで鉛筆を離さず仕事を続けていた。1953年に手がけた広島の平和記念聖堂は2006年に戦後建築として初めて重要文化財に指定されている。